冬の国上山へ
1月下旬、冬の国上山を散策
前回、良寛さんゆかりの「五合庵」に行ったので、今回は良寛さんが10年間過ごした「乙子神社草庵」を通って登ることにしました。
道の駅「国上」に車を止めて、いつもの酒呑童子神社の境内へ。
冷え込みで池の氷が凍っていました。
乙子神社までは1.7kmほどの道のり、車で行けばすぐなのですが、雪道歩きを楽しもうということでワカンを付けて歩きました。
踏み跡がほとんどなく、歩くのに苦労しました。
良寛さんゆかりの乙子神社
車道で、ワカンをはずし、乙子神社へ。
雪囲いがされていました。足跡はありません。足は雪に膝くらいまでもぐってしまいます。
朝夕の急な山坂の登り降りが、老の身にこたえたこと、五合庵の老朽化したこともあって文化三年(1816)良寛はこの草庵に移り住んだ。ここでの十年間の生活は良寛芸術の最も円熟した時期である。
自分の寺を持たず、草庵で一人で暮らしながら、創作活動を続けたとは驚きです。
冬の寒さは年老いた良寛さんにはこたえたと思います。
車道を歩き、国上寺本堂へ。
いつもの登山道を通り、国上山へ。
国上山頂
山頂からは大河津分水路が見えます。
大河津分水路
国上山の麓を流れる大河津分水路は、信濃川下流域を洪水から守るために掘られたものです。
分水路の計画は江戸時代からあったのですが、本格的な工事が始まったのは明治になってからで、通水したのは大正11年(1922年)、完成したのは昭和6年(1931年)だそうです。当時、東洋一の大工事といわれました。
五合庵や乙子神社草庵など、国上山の麓に長く生活していた良寛さんは、洪水について次のような詩を残しています。
当然ですが、良寛さんの頃は分水路はありません。
寛政甲子の夏
・・・ ・・・
江流 なんぞ滔々たる 川水はとうとうと流れ、
首をめぐらせば臨沂を失す 岸のさかいはどこにもなく、
およそ 民 小大となく 百姓らは子供も大人も、
作役 日にもって疲る 毎日の仕事で疲れはてている。
・・・ ・・・
老農は鋤に倚りて欷く 農夫たちは鋤を手にしてなげき泣くばかりだ。
いずれの幣帛か備わらざらん 村のお宮に供物をささげ、
いずれの神祇か祈らざらん 神という神には祈りつくしていたはずなのに。
昊天 杳として問いがたく 天はそれにこたえてくれない。
造物いささか疑うべし この世に神があるなど疑いたいほどだ。
・・・ ・・・
2019年10月12月、台風19号が伊豆半島に上陸し、各地で大きな被害が出ました。
この時、大河津分水路は、氾濫危険水位を超え最高水位を記録しながらも上流で降った信濃川の水を日本海に流し続け、下流域を洪水から守ったそうです。
洪水の惨状を目の当たりした良寛さんは「この世に神があるなど疑いたいほどだ」と詩に書いていますが、
今は、大河津分水路が「越後平野の守り神」です。