北国街道は、江戸時代につくられた脇街道の一つです。
脇街道は、江戸を起点とする東海道などの五街道から分岐する主要な街道とされています。
北国街道は五街道の一つ旧中山道の信濃追分(追分宿)から越後の高田城下までの道がそれにあたります。
その後、佐渡の金銀が出雲崎に荷揚げされ北国街道を通り江戸に運ばれたこと、新潟湊が海運で栄えたことなどから、高田城下から新潟湊までも北国街道と呼ぶようになりまりました。
信濃追分(追分宿)ー高田城下(高田宿)ー潟町宿ー柏崎宿ー出雲崎宿ー新潟湊
今回、二日間かけて高田城下(以下高田宿)から柏崎宿まで歩いてみました。
■ 一日目 高田宿から潟町宿までの行程
<目次>
・高田宿から春日新田宿
高田は江戸時代につくられた城下町として発展してきました。総延長16kmにもおよぶ雁木造りの通りがあることで有名です。
雁木造りとは、家の庇を伸ばし雪が降っても行き来がしやすいようにしたものです。
高田駅前をスタート。
高田駅は、第三セクター「えちごトキめき鉄道」が経営する「妙高はねうまライン」の駅です。以前が、JR東日本信越本線の駅でしたが、北陸新幹線の開業にともない経営が変わりました。
間口の広い町家、立派な瓦の大屋根。
明治の末に陸軍を誘致した頃から、西洋風の建物や娯楽施設が流行したそうです。
「高田世界館」は今も映画館として営業しています。営業している映画館としては日本で最も古いそうです。
敵の侵入を防ぐためカギ型に曲がっています。
街道の分岐点である道標は、近くの宇賀神社にあるそうです。
青田川に架かる往下橋を渡ります。向こうに妙高山、火打山、南葉山が見えます。
市街地を流れている青田川は高田城の外堀として利用されました。
関川に架かる稲田橋を渡ります。
高田に城下がつくられたとき、関川河口の橋が壊されたので、関川の右岸と左岸を行き来するには、稲田の橋を渡り、大きく迂回することになります。
エスビーの工場がありました。SPICEとHERBだったのですね。知りませんでした。
春日新田宿を目指して歩きます。
・春日新田宿から黒井宿
高田藩の振興策として関川の河口の橋を廃したことによって生まれた宿場だそうです。これにより、関川の新潟方面と加賀方面行き来する場合、渡しを使わないければ遠回りして高田の城下を通ることになります。
ちなみに、河口に架かっていた応下(往下)橋の下で、安寿と厨子王はさらわれたとされています。
また、加賀藩を牽制するための戦略的な意味もあったそうです。
この地に福島城がつくられたときに春日山から移された神社、春日の地名の由来だそうです。
神社の東には、春日新田駅がありました。関川河口に鉄橋ができると廃止されました。
又左衛門という博労が東北地方から馬を買い求め売ったのが馬市の始まりです。
越後三大馬市(春日新田、椎谷、栃尾)の一つです。
佐渡の金銀が出雲崎に荷揚げされ、それ(御金荷)を運ぶためにも街道筋では多くの馬の需要があったと思われます。
又左衛門は苗字を許され高波忠太夫と名乗り、2代目の墓が覚真寺の参道にあります。
上杉謙信に招かれた10代超賢は、この地で布教を許され、川中島の合戦にも従軍したそうです。現在、本誓寺は高田の寺町にあります。
「右さいみち」は在の村々へ行く道「左おう志う道」は奥州方面に向かう道とあります。
ここは金銀を輸送する重要な街道でした。
黒い宿に行く途中、保倉川渡ります。米山が近くに、遠くに越後三山も見えました。
・黒井宿から潟町宿
川を渡ると黒井宿に近づきます。海の近くの宿場町です。
信越化学の工場、現在は臨海工業地域となっています。
レッド・サンダーはタカラトミーのプラレールにもなっています。
明治天皇が北陸巡幸の際、この地で休憩されました。
かつてこの地にあった「揚げ浜式塩田」を説明する標識があります。
犀潟駅から海岸に向かうと「お台場」の跡があります。
ロシア船が蝦夷地に来航し通商を求めた際、幕府は諸藩に沿岸防備強化を求めたとあります。
漁業が行われていたこの地では、魚介類の保存のため雪室がありました。
砂丘の内側にある湿地帯の水を海に流すために作られた人工の川、肥沃な耕地ができました。
潟町宿は砂丘にできた新しい宿場町だそうです。
砂丘からの湧水でできた井戸と池
一日目の高田宿から潟町宿の街道歩きはここで終了し、ここで宿泊することにしました。