北国街道は、江戸時代につくられた脇街道の一つです。
脇街道は、江戸を起点とする東海道などの五街道から分岐する主要な街道とされています。
北国街道は五街道の一つ旧中山道の信濃追分(追分宿)から越後の高田城下までの道がそれにあたります。
その後、佐渡の金銀が出雲崎に荷揚げされ北国街道を通り江戸に運ばれたこと、新潟湊が海運で栄えたことなどから、高田城下から新潟湊までも北国街道と呼ぶようになりまりました。
信濃追分(追分宿)ー高田城下(高田宿)ー潟町宿ー柏崎宿ー出雲崎宿ー新潟湊
今回、二日間かけて高田城下(以下高田宿)から柏崎宿まで歩いてみました。
■ 二日目 潟宿から柏崎宿までの行程
<目次>
・潟町宿から柿崎宿
この地に鵜の浜温泉がありますが、石油を試掘したときに見つかったそうです。
砂防林として植えられた黒松は樹齢240年にもなるそうです。
小川未明は、この地に伝わる人魚塚の伝説をモチーフに「赤い蝋燭と人魚」を書いたといわれています。
・柿崎宿から鉢崎宿
柿崎宿は米山と潟町砂丘の間にある宿場町です。
異国風の寺院がありました。境内に親鸞の句碑があり、「柿崎にしぶしぶ宿をかりければ、あるじの心熟柿なりけり」とあります。
浄福寺には明治天が皇滞在されたとする記念碑があります。
米山がが近く見えます。右手に登ると大清水観音堂があります。
・鉢崎宿から鯨波宿
鉢崎宿に入ります。現在はほとんどが米山の地名に変わっています。
「奥の細道」で有名な松尾芭蕉は、柏崎宿で泊まる予定が鉢崎宿まで歩くことになり、「たわら屋」に泊まることになったそうです。
山の麓がせまるこの地に関所がありました。全国を測量して歩いた伊能忠敬はここを通るときに苦労したいう話が伝わっています。
松田伝十郎は鉢崎宿が生地です。江戸時代、樺太を探検し、初めて樺太が大陸の一部ではなく、島であることを初めて確信した人です。その時に「樺太は離島なり、大日本国国境と見極めたり」という碑を建てたそうです。
間宮海峡で有名な間宮林蔵が樺太が島であることを確認する1年前のことです。
聖ヶ鼻の高台から、信越本線を見下ろすと貨物列車が通過しました。
鉢崎宿からは「米山三里」といわれる険しい道になります。
払川が流れている谷に下ります。谷を見上げると安産祈願で有名な姫胞姫神社が見えます。
払川が流れる谷を上がり、しばらく歩くと「牛ヶ首層内褶曲」が見えます。 地層が折れ曲がっているのが分かります。かつての海底地すべりの跡だそうです。
鯨波宿に向かって歩きます。
谷根(たんね)川が流れる谷に下ると、JR信越本線の「青海川駅」があります。
日本一海に近い駅で、ドラマ「高校教師」の最終回のロケが行われました。
谷根の谷に架かる米山大橋、国道8号線が通っています。
谷根川に架かる旧街道の橋、通行止めになったいたので迂回しました。
小さな川ですが、鮭の人工孵化放流が行われていて、秋にはたくさんの鮭が川を遡上します。
魚介類の安売りをしている「柏崎フィッシャーマンズケープ」から、国道を下らず山道に入ります。
・鯨波宿から柏崎宿
鯨波宿までくると米山三里の難所もようやく終えることになります。
駅舎もクジラが描かれてます。
米山三里を歩くコース案内図がありました。
日蓮上人が佐渡からこの地に漂着したことに由来する番神堂があります。
柏崎宿に到着
柏崎駅に向かいます。
良寛さんとの交流で有名な「貞心尼」の歌碑がありました。
柏崎は貞心尼の生地で、歌碑や史跡が多くあるそうです。
二日間で、高田宿から柏崎宿まで歩いてみました。
引き続き、北国街道を歩いてみたいと思います。
一日目の記録