北国街道歩きの際、高田の雁木通りをあるきました。
今回は、城下町高田の歴史を調べ、街に残っている「古いもの」を探しながら歩いて見ました。
<目次>
・高田城と城下
徳川家康の六男松平忠輝により高田城が築かれ、城下町として整備されました。一説にはその頃は75万石あったとされています。
城下には、佐渡の金が荷揚げされた港がある出雲崎宿と中山道信濃追分宿に通じる「北国街道」が通り、加賀前田藩に通じる「加賀街道」の分岐点があります(この地で旧北陸道のことを加賀街道と言います)
加賀前田藩は、領地と江戸を往復する参勤交代の際、そのほとんどがこの高田を通るルートを使ったそうです。
忠輝は、城下の発展のため関川の河口にある「応化橋」を廃したとされます。そのため、関川の右岸と左岸を行き来するには高田の城下を通ることになります。
幕府成立初期の頃は、幕府の佐渡金山の支配強化と最大の大名加賀前田藩を牽制する意味もあったと思われます。
石垣はなく、土塁の上に三重櫓の城がつくられ、関川と青田川が外堀として利用されました。
地形図で見ても城の周りを関川と青田川などが流れています。また、東側の堀が埋め立てられているのが分かります。
明治に陸軍第13師団を誘致したときに埋め立てられたようです。現在、高田には陸上自衛隊の駐屯地があります。
古い地図を見ると、城を中心に東側を除く、コノ字型に町がつくられたのが分かります。
西方浄土があるとされる西の方角に寺町があり、今でも60を超える寺院があります。
鬼門とされる北東の方角は複雑な形をしています。
案内板の説明によると、「鬼門は鬼の出入りする方角とされる北東の称で不吉とされ、城の場合は角を潰して変形にし、大がかりな鬼門除け工事を行った」とあります。
また、裏鬼門にあたる南西には春日神社をおいたそうです。
なお、「北東の鬼門には米山、南西の裏鬼門には妙高山がある」いう話を地元の方から聞きました。いずれも信仰の山として有名です。
・初代藩主松平忠輝
初代藩主松平忠輝は、江戸幕府初代将軍徳川家康の六男として生まれ、家康の命で有力大名伊達政宗の長女「五郎八姫(いろはひめ)」と結婚しました。(五郎八姫はとても聡明な人だったようです)
ところが、父家康や兄である二代将軍秀忠とは折り合いが悪く、24歳で改易されて流罪となりました。
このときに離縁となり若くして一人身となった五郎八姫ですが、生涯再婚はしなかったそうです。
高田で興味深い話を聞きました。不遇な忠輝ですが、長寿で92歳まで生きたというのです。亡くなったのはなんと五大将軍綱吉の頃です。
調べてみると
忠輝は確執のあった兄秀忠により配流され、
伊勢、飛騨、諏訪と移り住み、
最後の地となった諏訪では流罪の身でありながらも人々との交流があったとのこと、この地にお墓もあります。
徳川家康を父に持ち
伊達政宗が義父となり
ところが
兄に疎まれ
城や領地を失いながらの長寿。
さぞかし無念だったとは思いますが、
最後は気ままな人生を楽しんだのかもしれません。
・高田藩と榊原家
初代藩主松平忠輝の後、藩主は幾度となく変わりますが、姫路の榊原家が高田に来てから藩政は安定し、榊原家が高田藩最後の藩主となり明治維新まで続きました。
榊原家が越後高田に来るきっかけとなった人物が姫路三代藩主榊原政岑(まさみね)とのこと。
調べてみると
政岑は、八代将軍吉宗の「倹約令」を無視して、江戸吉原で派手に遊んだことをとをとがめられ、姫路から領地15万石の高田へ転封となりました。身請けした高尾太夫も高田に来たとのことです。(高尾太夫とは吉原最高位の称号)
藩主は嫡男の榊原正純ですが、政岑は後見人として倹約に励みました。
瀬戸内の姫路から雪国高田での生活の変化に驚いたことと思いますが、雪国での暮らしが政岑を倹約家にしたのかもしれません。
姫路藩主であった榊原政岑は、城下町姫路でも大変有名な殿様らしく、浴衣で外にでることがはばかれた時代、浴衣で祭礼に出ることを許可したことから「姫路ゆかた祭り」が始まったと伝えられています。
・高田まちあるき
高田城址公園 →①榊神社→②旧師団長官舎→③高橋孫左衛門商店→④高田小町→⑤高田世界館→⑥瞽女ミュージアム高田→⑦旧今井染物屋→⑧百年料亭宇喜世→⑨旧金津憲太郎桶店→⑩浄興寺→⑪高田まちかど交流館→高田城址公園
明治43年(1910年)陸軍中将長岡外史によって建てられた和洋折衷の木造建築です。
(長岡外史)中将は、・・・レルヒ少佐にスキーの技術の伝授を要請し、・・・「日本スキー発祥の地 上越市」を全国的に決定付ける歴史的瞬間でありました。
中将は、桜をこよなく愛し、その育成に努めました。 案内板の説明より
長岡外史に請われ、高田の金谷山でスキーを教えたレルヒ少佐は、新潟県のご当地キャラクター「レルヒさん」になっています。
「外史さん」も「レルヒさん」も長くて立派なヒゲがトレードマークです。
訪れた日は、レストランに改修しているため官舎内の見学はできませんでした。
寛永元年(1624年)創業の飴屋。「東海道中膝栗毛」で有名な十返舎一九も訪れたそうです。
通りにレトロな木製の看板を見つけました。
館内では、町家の造りを見ることができます。
陸軍を誘致したことから洋風な建物も残っています。
世界館は、営業している映画館としては日本で最も古いそうです。
町家造りを生かした雰囲気のあるお店です。和風の小物もたくさんあり、瞽女さんをデザインした手ぬぐいを買いました。
高田瞽女に関する資料、瞽女をモチーフにした絵画や映画の資料をみることができます。
ホーロー看板を見つけました。
江戸時代末期の町家建築で、「造り込み式」の雁木造りの形式を残しているそうです。
この日は建物の保存・活用のため改修工事が行われていたため、館内の見学はできませんでした。
こちらで、庭を見ながら「弥生御膳」「シーフード咖里御膳」をいただきました。
サメの吉列(カツレツ)も付けてもらいました。
この地では、年越しにサメを食べる習慣があるそうです。
旧金津憲太郎桶店は、江戸時代後期の町家造りを残しています。
松平忠輝とともに高田に移ってきたそうです。
普段は館内を見学できますが、この日はコンサートが開催されていて入館できませんでした。
この後、高田城址公園に戻り街歩きを終えました。
以前、北国街道歩き(高田から柏崎)のスタート地点として高田の街を歩きましたが、もう一度歩いてみました。
古いものがたくさん残っていて見どころの多い街歩きができます。
機会があればまた歩いてみたいと思います。