はじめに
5月上旬、午後から上越市の高田に用ができたので、その近くで散策できる里山を探しました。
以前、上杉謙信が青年期に過ごした鶴城山(栃尾城跡)を歩いたことがあり、謙信の二人の養子、景勝と景虎のことに興味をもちました。
そこで、謙信の死後、越後御館(おたて)の乱(二人の養子景虎と景勝の相続争い)で破れた上杉景虎の最期の地、鮫ヶ尾城跡を散策することにしました。
駐車場に車を停めると、そこは「斐太(ひだ)歴史の里」公園となっていました。
公園には、「 天神堂古墳群」と「観音平古墳群」(古墳時代)があり、散策できる遊歩道もあります。
駐車場のそばには弥生時代の後期の遺跡「斐太遺跡」もあり、この歴史公園で、戦国時代の遺跡「鮫ヶ尾城跡」と3つの時代の遺跡を見ることができます。
今回は、斐太遺跡と鮫ヶ尾城跡を見ることにしました。
距離3km、1時間40分ほどの散策でした。
斐太遺跡(弥生時代)
・・・弥生時代の終わり頃に栄えた・・・環壕集落です。・・・集落の周りに巡らされた防御用に空壕(からぼり)は総延長が900mにもお呼びます。・・・卑弥呼が登場する「倭国大乱」の時代を経験した守りのムラ(拠点集落)であったと考えられます。
卑弥呼の国 邪馬台国があったとされる北九州や大和地方(奈良県)から遠いこの辺りまで、倭国大乱の影響があったのでしょうか。
わざわざ小高い場所にムラをつくり、敵からの攻撃を防いだということか思います。
時を隔てた戦国時代にも同じ防御の目的でこの地に山城が作られたことになります。
・・・通常地中に完全に埋没している竪穴建物跡や環壕跡が浅い窪みのまま確認することのできる全国的にめずらしい遺跡です。
ここでは、今から1800年前に掘られた窪みや濠がそのまま残っています。
失礼して中を拝見。かなり広いですね。
収穫でお忙しいようです。ムラを守るためとはいえ、農作業の度ふもとに下りムラに登ったことになります。
鮫ヶ尾城跡(戦国時代)
この城跡は、「続日本の城100名城」に選定されているそうです。
標高190mに城跡があります。
・・・上杉謙信が後継者を明確にしないまま急逝したため、二人の養子の「景虎」と「景勝」が家督をめぐって越後の勢力を二分して争いました。・・・景虎は・・・鮫ヶ尾城にて自害しました。・・・当地で非業の最期を遂げた景虎の命日を新暦の4月29日と定め、毎年法要が営まれています。
地元の方のお話では、勝福寺で行われる法要には毎年多くの方が参加するそうです。
景虎に仕えていた茶臼山城主手島氏には琴の名手である美しい姫がいて、御館 の乱で景虎が敗れると、姫は景虎を恋い慕うあまり古井戸に身 を投じて死んでしまった。
そんな悲話が載っていました。
悲劇の武将上杉三郎景虎を想う女性ファンは今も多いようです。
本丸の周りに幾重にも堀切が作られているのが分かります。
城跡からは高田平野を一望にでき、北陸新幹線の上越妙高駅も見えました。
おわりに
園内を散策して
斐太遺跡は、新潟県ではめずらしく弥生時代の大きな遺跡であることが分かりました。そばに、同じ弥生時代の吹上遺跡や釜蓋遺跡があり、斐太遺跡群とされています。園内には古墳群もあるので、この地域の時代の移り変わりを知ることができます。
(写真は前掲の説明を拡大したもの)
遺跡の出土品を調べると、広く西日本の地域とも交流があったとのこと、斐太と呼ばれたこの辺り一帯は古い歴史があることが分かりました。
鮫ヶ尾城跡は、国境付近まで勢力を伸ばしてきた武田信玄に対して、謙信が拠点とした春日山を守る上で重要な役割を果たしました。(「斐太歴史の里を歩く」パンフレットより)
謙信の死後、御館の乱により落城、遺跡からは戦火による「焼けたおにぎり」も出土しているそうです。
園内には花もたくさん咲いていました。
自然も残っていて、野山に咲く花を見ながら散策することができました。
里山には、むかしの人々の生活の跡が残っているところが多くあります。
公園のとなりにあった「斐太神社」や周辺の遺跡や他の山城も行ってみたいと思いました。